芋の歴史

芋の歴史
 「ほしいも」は現在、東海村を含めたひたちなか地方が全国の90%のシェアを占めています。しかしサツマイモなら全国各地で生産されており、茨城が北限地。それなのにほしいもの生産は茨城に特化されています。
どうしてなのでしょうか?そのヒミツを覗いてみましょう!


 

どうして「ほしいも作り」は茨城県が多いの?

 昔、茨城県はサツマイモの主産県ではありませんでした。さらにサツマイモは重くて安いため、北海道方面への輸送は困難でした。また冬には凍ってしまいます。
しかしサツマイモをほしいもに加工すればその条件はクリアーできる。こうした点で、茨城県東部のサツマイモ畑作地帯が地の利を得たのでした。
北海道に一番近くてサツマイモ商品を作れる北限が茨城県だったのですね。
 


茨城でほしいも作りが始まったのは?

茨城でほしいも作りが始まったのは? 茨城県で初めて「ほしいも」を作った人物には、2通りの説があります。
しかし面白いことに、どちらの説でもほしいも(当初は甘藷切干。
他に乾燥いも、切干いもなどと呼ばれていた)製造は、明治41年に始まったのです。茨城産ほしいもは100年の歴史があるのですね。
こちらでは、「茨城ほしいも創始者」の2通りの説をご紹介します。
 


湯浅藤七の場合

 湯浅藤七は福島で事業を失敗し、湊町へ戻りせんべい屋をしていました。そのかたわら、
1908年(明治41年)にほしいもの製造を始め、販売していました。せんべいとほしいもの製法が似ており、
せんべいを干す設備も使えたので成功したようです。


 それに目をつけたのが水産加工業者たちでした。同じ港町で刻こんぶ製造業を営む宮崎利七は湯浅藤七を
静岡へ派遣し、さらに静岡から技術者を招き、このほしいも製造を企業化し、小川町に大規模な製造所を設立して、収益をあげました。その後、これにならう者が増えていきました。


 湊町の漁業家や水産加工業者は、魚介類の干物製造などを行っていたので、釜場、セイロ、スノコ、乾燥場などの道具や設備があり、その技術をほしいもの製造に応用するのは簡単なことだったのです。
 また漁業は豊不漁の差が激しく、冬場には魚の水揚げが減るので、ほしいもの製造が冬場の仕事として広まったのだと考えられます。


小池吉兵衛の場合

 小池吉兵衛がほしいも製造を始めたいきさつについては、弟である大内地山が『前渡郷土史』のなかで、「切乾甘藷の製造創始者」として次のように書いているので、少し長いですがそのまま引用します。


 茨城県知事に森正隆(後出)といふ人があった。筆者とは取りわけ入懇の間柄であって県治上の施設の献策すること多く採用された。
其森知事が明治四十一年に余に勧めて切乾甘藷製造を普及したいとの話があったので甘藷に就いて調査して見ると、柑橘類は本県が最も多く酸味を帯び南に行く程酸味が薄くなるが甘藷は本県が最も多くアマ味を帯びてるが南へ行程エゴ味が含有されている。
従って本県で切乾にすれば其品質は最上のものになるといふ結論を得たので、同年の秋から実兄小池誠司に其製造を勧めたら喜んで之に応じた。
之を森知事に話すと其れなら静岡から製造者を呼んでやると二名を呼んでくれたのが、蓋し本県に於ける切乾甘藷の権輿であらうと思ふ。
人或は説をなして曰く誰々が創始者である否誰々が創始者であると。
遊び半分やおもちゃ半分に製造されたものはあるかも知れぬが、本県の産業として本村の特産として之を他に優越性を持っているのを見越しての計画的創始は、誰が何といはふと小池誠司であると信ずる。其れについて少しく説明させてもらひたい。
北海道から銚子へ航行する汽船は帰りには甘藷を下積みして行くことが当時普通となって居た。
それは甘藷を産出するのが本県までで本県以北には産出しないので本県から輸出するのを最も便宜としたからである。
其れで考へた。切乾甘藷の本家は静岡県であるが、静岡県と競争しても運賃の関係上北方輸出は大に見込が立つわけであるから、生甘藷に代ふるに切乾甘藷を以てすれば必ず成功する、殊に況んや品質良好であるからにはと、是れ小池誠司が福島県以北の各県へ輸出し始めた所以であって、誰が何といふても他の人は之に追随したものであることは確かである。
尤も四十二年か四十三年になって大和田村長が静岡から教師を呼んで奨励し、全村への普及を早めたことは否定することは出来ぬが、沿革の大要は右の如くである。


 地山は、ほしいも製造の創始者は「誰が何といはふと小池誠司であると信ずる」と書いていますが、この記述から、当時ほしいも製造を誰が始めたのか、いろいろ話が飛び交っていたことが伺えます。
ただ、この小池吉兵衛について『勝田市史料Ⅳ』解説(大江志乃夫)では、「小池の製造創始は個人レベルのことであった」と評されています。


茨城の「ほしいも」はどこから伝わってきたの?

茨城の「ほしいも」はどこから伝わってきたの? 静岡県御前崎地方からです。しかし今や静岡ではまったくマイナーなもので、どこで誰が作っているかが分かるくらいだと言います。
 


サツマイモはどこからきたの?

サツマイモはどこからきたの? ルーツを調べると、その道のりはとても長いです。
多くの研究者の説によれば、サツマイモの原産地はメキシコ南部から南米のペルーにかけての辺り。
紀元前3000年ころにはメキシコ、コロンビア、ベネズエラなど中部から南部のアメリカ大陸のかなり広い地域で栽培されていたようです。
アジア方面では、16世紀にアフリカからインドへ伝わり、マレー、インドネシア、フィリピンへ次々に伝わっていきました。
中国(明の時代)へサツマイモが初めて入ったのは1570年ころ(一説には1594年)とされています。
また熱帯原産のサツマイモは、冷涼なヨーロッパではあまり広まらなかったようです。
日本に最初にサツマイモが入ったのは一六一五年。場所は薩摩ではなく長崎県平戸。
持ち込んだのはイギリス生まれの航海士ウイリアム・アダムス、日本名は三浦按針だと伝えられています。
琉球にサツマイモが上陸してから100年後の1705年(宝永2年)に、前田利右衛門が船乗りになって琉球に渡り、サツマイモを持ち帰りました。
利右衛門は南薩摩の現在は指宿市(旧山川町)の貧しい農家に生まれ、半農半漁の暮らしをしていました。
琉球に寄ったとき、島人の煮芋をもらって食べるとおいしかったので、3個の赤芋をもらい受け、自分の畑で栽培し、成功しました。
それを近所の人たちに分け、急速に広まっていきました。
耕地は水はけがよすぎてパサパサに乾いていたので、そういう土地でサツマイモは最適の作物だったのです。
サツマイモのおかげで、その後の享保・天明の飢饉の時にも薩摩の国では餓死者は出ませんでした。
利右衛門はその功績を讃えられ、甘藷翁(からいもおんじょ)と呼ばれ、旧山川町の徳光(とくこう)神社に祭られ(明治30年に建立)、頌徳碑も建てられています。
現在では「利右衛門」という名前の焼酎も製造され、人気を博しています。


サツマイモの葉っぱって食べられるの?

サツマイモの葉っぱって食べられるの? 一般には芋を食用としていますが、アフリカや東南アジア、我が国では沖縄などで、やわらかな茎(葉柄)や葉も野菜として食べられています。


 
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